
平井敏彦
マツダ開発責任者
1986年に初代ロードスターの開発主査となり、三次元 CAD を入れて人手の不足を補いながら開発を率い、AZ-1 の開発主査も務めた人
年表
- 1961
入社
東洋工業株式会社 基礎設計部
- 1978
マツダオート石川サービス部長
- 1980
車両設計部車両設計部リーダー
- 1986
マツダ株式会社 商品開発本部初代ロードスター開発主査
- 1989

いばらの道
1986 年 2 月の経営会議で先行開発が決まり、主査に任命された平井を待っていたのは、いばらの道だった。海外の開発委託会社を使う条件付きのプロジェクトだったが、イギリスの委託先から届いたプロトタイプの設計図では量産車の開発ができないと考え、社内開発に切り替えるよう主張して、その会社との契約打ち切りが最初の仕事になった。企画設計に協力を断られると技術研究所の松井所長に直訴して 4 名から 5 名のエンジニアを得たが、レイアウト業務の経験は全く無かった。人手の不足はコンピューターで補うしかないと考えて三次元 CAD を導入し、基本レイアウトをコンピューターに描かせた。
AZ-1開発主査
- 1992
AZ-11992年〜1995年開発責任者
リトラクタブルさえ外させた
AZ-1 は、1989 年の東京モーターショーに出したコンセプトカー AZ550 スポーツを市販にしたもので、生産性のような現実を考えて設計されたものではなく、開発は困難を極めた。大きな壁にぶつかった開発の指揮を任されたのが、初代ロードスターの開発主査の平井敏彦だった。平井は AZ-1 をスポーツカーとして成り立たせるために、トランクを無くし、サイドシルを高くし、リクライニングしないシートにするなど、性能を犠牲にしなければならない快適性の機能を徹底的に無視した。AZ550 スポーツの象徴だったリトラクタブルヘッドライトさえ、無駄な重量とバランスを損なうとして取り払わせた。
- 1993
退社
大分大学 工学部生産システム工学科講師
- 2000
広島文化学園大学非常勤講師
つながり
プロフィール
山口県下松市出身。1961年に中央大学理工学部精密機械工学科を卒業。初代ロードスターの開発責任者。1961年に東洋工業(現マツダ)に入社し、1986年に商品開発本部で初代ロードスターの開発主査に就任。1989年にはAZ-1の開発主査も務めた。1993年にマツダを退社し、大分大学工学部生産システム工学科の講師に就任。日本自動車殿堂の殿堂者。