
長谷川龍雄
トヨタ開発責任者
初代カローラを「80点+α」で生み、トヨタの主査の心得を 10 か条に残した人
年表
- 1939
立川飛行機(株)
- 1946
入社
トヨタ自動車
- 1961
パブリカ 初代1961年〜1969年開発責任者
- 1965
スポーツ8001965年〜1969年開発責任者
売るつもりの無かった車
スポーツ 800 は、パブリカのエンジンとシャシを使う前提で、1962 年に関東自動車工業で開発が始まった。主査は長谷川龍雄。長谷川によれば、もともと売るつもりで作った車ではなく、パブリカの開発が終わって次のカローラが始まるまでの手慰みにやった実験的な作品にすぎなかった。パブリカの部品を使ったのも、製品化の予定が無い車には会社の設備を割けなかったからだ。ところが 1962 年の東京モーターショーに出すと思いがけない反響があり、販売部門の要望で製品化することになった。市販は 1965 年 4 月から。日本に合わせたパブリカの部品ではアメリカの道路を高速で飛ばす使い方に耐えられないと長谷川が強く反対したこともあり、輸出はほとんどされず、1969 年 10 月に販売を終えるまでの累計は 3,131 台にとどまった。
- 1966
カローラ 初代 カローラ1966年〜1970年開発責任者
80点主義は、80点で足りるという意味ではない
パブリカは走る楽しさはあっても車の豊かさが物足りなかった。長谷川は初代カローラで、走行性能や安全性のどの科目にも 80 点を下回るものを作らないことを 80 点主義と呼んだ。80 点以上はいくらあってもよいが、原価を必要以上に上げてはいけない。そのうえで、すべて 80 点では特徴の無い車になるので、新しい技術で光るものを加える 80 点+α をコンセプトにした。
+α はスポーティー性
初代の+α を、長谷川はスポーティー性と定めた。コロナやクラウンより先に曲面ガラスを使い、エンジンは高速での静粛性のために 5 ベアリングにした。多くの装備がオプションだった時代に、リヤランプや 2 スピードワイパー、左側ドアのアウトサイドキーを標準装備にした。
- 1967
取締役製品企画室副室長
- 1968
スプリンター(E15)1968年〜1970年開発責任者
- 1970
セリカ 初代1970年〜1977年開発責任者
- 1972
常務取締役製品企画室長
- 1978
専務取締役
つながり
プロフィール
鳥取県鳥取市出身。1939年に東京帝国大学航空学科を卒業。初代カローラの主査。トヨタで初代トヨエース、初代パブリカ、トヨタスポーツ800、初代カローラの主査を歴任し、初代セリカ・カリーナの開発主査も務めた。2004年日本自動車殿堂入り。