
島田勝利
日産開発に参加
年表
- 1957
スカイライン 初代1957年〜1963年開発に参加
東京と姫路を 33 時間で往復
島田勝利は入社してすぐ、初代スカイラインの足回りの仕事に携わり、2 年後のマイナーチェンジ版 ALSI-2 型ではホイールブレーキの開発を上司の指導を受けて担当した。レース車の開発に移る前、島田は同年代の仲間 2 人と、会社から順番に貸し出されていた ALSI-2 型で、東京と姫路を往復するロングドライブに挑んだ。給油とトイレのほかは止まらずに走り、往復 33 時間、1300km を走り抜いた。車のトラブルもほとんど無く、長時間の連続運転に耐える耐久性と、疲れの少なさを確かめられた。ところがガソリン代が約 2 万円もかかり、経理に領収書を突き返された。そのとき桜井眞一郎が「いっぺんでダメなら分けて請求すればいいだろう」と味方をしてくれた。
日産
- 1963

ダックスフントのような S54
第 1 回日本グランプリで惨敗したプリンスは、翌年の第 2 回で勝つために、スカイライン 1500 にグロリアの G7 型 6 気筒エンジンを積み込む計画を始めた。島田勝利の受け持ちは足回りだった。長い 6 気筒をねじ込むために、エンジンルームの防火壁の直前で車体を切って 20cm 延ばし、ホイールベースも 20cm 伸ばした。「まるでダックスフントのようだ」と言われた S54 型は、走らせるとバランスがまったく取れず、ハンドルを切るたびにボディがねじれた。絆創膏を貼るように補強材を入れて剛性を確保し、暴れるリアアクスルにはトルクロッドを足して、ようやく曲がれるようになった。この計画の稟議書には赤鉛筆で「レース」と朱書きされていたといい、それがあると最優先でお金が出た。完成した S54 型は「スカイライン GT」と名付けられた。
つながり
プロフィール
東京出身。富士精密工業(後のプリンス自動車工業)のシャシー設計者。入社してすぐ初代スカイラインの足回りの仕事に携わった。1963年にレース車開発グループのリーダーだった桜井眞一郎に請われ、R380、R381、R382、R383 の開発に設計者として約6年間参加した。桜井の「右腕」「番頭」と呼ばれた。