桜井眞一郎

日産開発責任者

2代目の途中から7代目の開発終盤までスカイラインの開発責任者を務め、「ミスタースカイライン」と呼ばれた人

年表

  1. 1951

    清水建設 機械部

  2. 1952

    入社たま自動車

    たま自動車 設計課

  3. 1963
    スカイライン 2代目(S5)のサムネイル
    スカイライン 2代目(S5)

    1963年〜1968年開発責任者

    一緒に開発した人

    乗用車部 車両設計一課 課長代理

  4. 1965

    車両技術第一部 車両設計二課 課長代理

  5. 1966

    日産自動車 プリンス事業部 第一車両技術部 第二車両設計課プリンス事業部 第一車両技術部 第二車両設計課 課長代理

  6. 1968
    スカイライン 3代目(C10)のサムネイル
    スカイライン 3代目(C10)

    1968年〜1972年開発責任者

    合併のさなかの 3 代目

    プリンス自動車工業が日産自動車に吸収合併されたとき、3 代目スカイライン(C10)の開発はすでに佳境に入っていた。上層部の判断しだいでは、開発中止も車名の断絶もあり得た。できあがった試作車は実にいい具合で、いっぽう日産ではブルーバード(510)を開発していた。話し合いの結果、ブルーバードはファミリーセダンとして出し、スカイラインは走りの性能を徹底的に追求することになった。桜井は、2 代目のフィロソフィーを受け継いで存在価値を示そうと、荻窪のプリンス出身のエンジニアが一丸となったと語る。シートの表皮や匂い、エンジンの音、ドアの開閉音にまで気を配ったのが 3 代目の C10 だった。C10 は 1968 年の夏に「ニッサン」ブランドで登場した。

    第四設計部 第二車両設計課 課長

  7. 1969
    スカイライン 初代 GT-R(PGC10/KPGC10)のサムネイル
    スカイライン 初代 GT-R(PGC10/KPGC10)

    1969年〜1972年開発責任者

    切り詰めたら 2 ドアになった

    桜井にとって、スカイラインはあくまで運動性能の優れたセダンで、4 ドアが基本だった。だからハコスカの 2 ドア GT-R(KPGC10)も、4 ドアがベースになっている。ホイールベースを短くした 2 ドアが要ることは、4 ドアを開発していたころから感じていた。理想の走りを追うとホイールベースを詰める必要があり、レギュレーションで許される後席の広さを確保できるぎりぎりまで切り詰めたら、2 ドアになったという。グリルは 4 ドアと同じで、リアのオーバーフェンダーのほかに派手なところは無い。スカイライン本来のスタイルは何も変わっていない、と桜井は言う。

    運転席 70、助手席 20、後席 10

    桜井のスカイラインは、開発のときから助手席には少しお金をかけても、後席は高性能になるほど簡素にしていた。その分を運転席に回し、ドライバーが操る喜びを感じられるように、ポジションとサポートを重んじた。感覚で言えば、運転席が 70 なら助手席が 20、後席は 10。2 ドアの後席を本当に「イヌかネコ、モノ置き」くらいに割り切れれば、走りはもっと機敏になる気がしていたという。1970 年に出た 2 ドアは、走りを考えれば理想だったと桜井は振り返る。最強のエンジンを最大限に生かすために、運動性能を突き詰めた究極の形が 2 ドアの GT-R だった。

  8. 1972
    スカイライン 4代目(C110)のサムネイル
    スカイライン 4代目(C110)

    1972年〜1977年開発責任者

    「よし、わかった」と作ったケンメリ

    4 代目(ケンメリ)の開発が始まったのは日産との合併の直後で、スカイラインがお荷物扱いと揶揄されたこともあった。3 代目のハコスカは評価こそ高かったが、世間からは「免許を取ってすぐ乗るクルマではない」と見られていた。営業の側からは、高性能より大衆受けするクルマを、トヨタから乗り換えても違和感がなく格好よく見えるクルマを、と強く求められた。桜井は「よし、わかった」と、あまり特徴を出さないことを意識して 4 代目を作った。ケンメリは 64 万台と歴代スカイラインで一番売れたが、技術屋としては不本意で、大衆を意識しすぎたスタイルは正直あまり好きではなかったと語っている。

  9. 1973
    スカイライン 2代目 GT-R(KPGC110)のサムネイル
    スカイライン 2代目 GT-R(KPGC110)

    1973年〜1973年開発責任者

    「このエンジンは排ガス規制をクリアできません」

    ケンメリの時代も、桜井の頭にはつねに GT-R の構想があった。4 代目スカイライン(ケンメリ)のハードトップ 2000GT をもとに、1973 年 1 月に GT-R が出る。しかし S20 型エンジンは昭和 48 年の排出ガス規制に適合できず、発売から 3 か月後の 4 月末に生産と販売を終えた。決定打は、優秀なエンジニアたち自身の「このエンジンは排ガス規制をクリアできません」という一言だったと桜井は振り返る。総生産台数は 197 台。オイルショックがなければ GT-R は長く続いていたと思う、とも語っている。

  10. 1974

    第三車両設計部 主任車両担当員

  11. 1976

    第三車両設計部 次長

  12. 1977
    スカイライン 5代目(C210)のサムネイル
    スカイライン 5代目(C210)

    1977年〜1981年開発責任者

  13. 1979

    商品開発室 主管担当員

  14. 1980
    レパード 初代(F30)のサムネイル
    レパード 初代(F30)

    1980年〜1986年開発責任者

    一緒に開発した人

  15. 1981
    スカイライン 6代目(R30)のサムネイル
    スカイライン 6代目(R30)

    1981年〜1990年開発責任者

    戦場ヶ原の稲妻

    桜井はスカイラインを開発するとき、自らコンセプトストーリーを描き、設計者全員に共有させて取り組んだ。ストーリーには車だけでなく、運転する人間の思想、性格、年齢、職業まで細かく決めてあり、R30 型の開発では「戦場ヶ原の稲妻」を作った。

  16. 1984
    スカイライン 7代目(R31)のサムネイル
    スカイライン 7代目(R31)

    1985年〜1990年開発責任者1984年まで

    一緒に開発した人

    開発終盤での入院

    7代目の開発が終盤に入った 1984 年、桜井は突然病に倒れて入院し、開発責任者をプリンス時代からの仲間で一番弟子の伊藤修令に急ぎ引き継いだ。1985 年に退院した後もスカイラインの開発責任者には戻らず、日産に新しくできた技術車両設計部の部長として、パイクカーの企画開発に携わった。

    商品開発室 車両開発統括部 部長

  17. 1986

    オーテックジャパン技術車両設計部 部長代表取締役社長

  18. 1994

    エス・アンド・エスエンジニアリング代表取締役

  19. 2010

    取締役会長

つながり

  • 伊藤修令のプロフィール写真

    伊藤修令

    部下弟子

    プリンス事業部の第二車両設計課で、伊藤は課長の桜井の下、主任としてシャシー関係のとりまとめをしていた。

    伊藤はプリンス時代からの桜井の一番弟子で、1984年に桜井が病に倒れて入院すると、スカイラインの開発主管を急遽引き継いだ。

  • 島田勝利のプロフィール写真

    島田勝利

    部下

    島田は1963年、レース車開発グループのリーダーだった桜井に請われてシャシー関係の設計に移り、R380 から R383 までのレース車両の開発に設計者として加わった。

  • 渡邉衡三のプロフィール写真

    渡邉衡三

    部下

    渡邉は日産入社後にプリンス事業部第1車両設計部へ配属され、桜井のもとで C10 スカイラインや R381・R382 のサスペンション設計を担当した。

  • 田村宏志のプロフィール写真

    田村宏志

    部下

    田村は日産からオーテックジャパンに出向して桜井のもとで学び、社長の桜井から「ザガートとコラボするぞ!」と言われてオーテック・ザガート・ステルビオの車両計画図を書いた。

プロフィール

神奈川県出身。1951年に横浜国立大学工学部機械工学科を卒業。スカイラインの開発責任者 (主管)。2代目の途中から7代目の開発終盤まで一貫して指揮を執り、「ミスタースカイライン」と呼ばれた。

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