
伊藤博之
ホンダ開発に参加 / 開発責任者
初代から6代目までシビックの開発に携わり、3代目のワンダーシビックで開発主査を務めた人
年表
- 1966
入社本田技研工業
本田技研工業
- 1979
シビック(2代目)1979年〜1983年開発に参加
猫足で失敗した 2 代目
伊藤博之は初代シビックから開発にかかわり、アコードのあとに 2 代目シビックを担当した。2 代目は猫足のソフト路線で開発し、それが失敗に終わった。「スーパーシビック」と呼ばれた 2 代目は、大きな成果を上げられなかった。この苦い経験から、伊藤は次に手がけた初代シティで、お客はホンダらしいガンガン走る車を欲しがっているはずだと考え、音や振動も消し切らずにある程度感じさせる車にしようとした。
- 1983
- 1987
シビック(4代目)1987年〜1991年開発責任者
総決算のつもりの 4 代目
3 代目に続いて、伊藤博之はそのまま 4 代目シビックも担当した。3 代目の終わりごろにはシャトルの 4WD をパートタイムからビスカスカップリングのリアルタイム 4WD に変えていて、その技術は 4 代目に引き継がれた。1987 年の「グランドシビック」は全車に新開発の 4 輪ダブルウィッシュボーンを採り、1 本のカムシャフトで 4 バルブ・センタープラグを実現したハイパー 16 バルブエンジンも出した。伊藤がいちばん嬉しかった出来事の一つは、西ドイツのゴールデンステアリング賞で、走行性能の高さが欧州で認められたことだった。伊藤は、この 4 代目が総決算だと思っていた。
- 1991
サンバを見にブラジルへ
4 代目が総決算だと思っていた伊藤博之は、5 代目の「スポーツシビック」まで担当することになった。初代の登場から 20 年目のモデルで、初代を買ったお客の子どもたちが今度のターゲットだった。ボディのデザインは「サンバボディ」と呼ばれ、カーニバルをテーマに躍動感を全身で表すものだった。伊藤はそのイメージ作りのために、実際のサンバを見にブラジルへ飛び、リオのカーニバルを感覚としてつかんだ。エンジンでは、いずれ来る省燃費の時代に備えて、気筒休止まで使う VTEC-E を載せた。5 代目は二度目の日本カー・オブ・ザ・イヤーを受け、伊藤とシビックの深いかかわりはここで終わった。
- 2004
退社本田技術研究所
つながり
プロフィール
3代目シビック(ワンダーシビック)の開発主査。