
中谷明彦
三菱開発に参加
年表
- 1998
ランサーエボリューションV1998年〜1999年開発に参加
GTOではなく、エボでGT-Rに勝つ
エボIVが出た1996年、中谷はN1耐久レースの1クラスで三菱GTOに乗り、日産スカイラインGT-Rと戦っていた。GTOのほうがコーナーで速いと確信していた中谷は、2.6 LのGTOを出して重さをそろえることや、フロントLSDの装着を求めた。しかしエンジンは費用の、LSDは空間の問題で収まらず、GTOからエボへの車両変更が持ち上がった。中谷に課されたのは、GT-Rに勝てるエボにするにはどうすればよいか、という難題だった。
「無理な注文」が通った
中谷はエボVに向けて改善項目を並べ、取り入れてもらうよう提案した。最大の要求は、相反する車体の軽量化と高剛性化だった。車体のスチールパネルとサイド・リアのガラスをすべて薄くする案は、燃費のために薄板化を検討していた時期と重なって意外にもすんなり通り、試験的にRSにだけ採用された。ブレンボの対向ピストンキャリパーやアーム類のアルミ化、トレッドを広げての225サイズのタイヤも入った。できあがったエボVは初走行から驚くほど速く、AYCを付けたN1仕様は1998年にチャンピオンを取った。
三菱
- 1999
ランサーエボリューションVI1999年〜2001年開発に参加
フロントバンパーは中谷のデッサンから
エボVIでは、中谷の意見がさらに多く取り入れられた。目新しいフロントバンパーの形は、中谷が描いたデザインのデッサンを採用したものだ。最後期に設定されたトミ・マキネン・エディションも、バンパーのデザインと走りのセッティングのほとんどを中谷が手がけた。三菱のWRCワークス車がこのエディションの市販車に似たフロントバンパーを付けて走ったのは、2000年シーズンのことだ。
- 2001
ランサーエボリューションVII2001年〜2003年開発に参加
出ないはずだったエボVII
中谷の自伝によれば、新しいベース車のランサーセディアはギャランVR-4とほぼ同じ大きさで、ランエボはVIのトミ・マキネン・エディションで最後になるはずだった。後を継ぐモデルを出すかどうかも決めかねていたという。ただし実際には、三菱がWRカーへの移行を決めた2000年11月までに、エボVIIとそれをもとにしたグループAの車両の開発がすでに進んでいた。
- 2003
ランサーエボリューションVIII2003年〜2005年開発に参加
- 2005
ランサーエボリューションIX2005年〜2007年開発に参加
スーパー耐久の顔と、壊れないレース車
エボIXは、エボVIIIで不評だった富士山型グリルをやめ、中谷と木下隆之の組がスーパー耐久で走らせていた車のフロントバンパーに似た顔になった。中谷は、エボVのヒットのあと衝突安全や耐久性、燃費、日常の使い勝手まで求められるようになっても、前年より筑波で速いタイムを出すことを開発の目標にし続けた。とくに高く評価するのがエボVIIIとIX MRで、レース仕様車にもACDやAYCを積めるようになり、耐久性も大きく上がった。速いだけでなく壊れずに走り切れることは、競技車にとって大きな進化だった。
- 2007

幻の「ランエボXX」
中谷がランエボの開発に直接関われたのは、エボXの初期モデルのあたりまでだった。中谷はエボXで終わらせず、毎年少しずつ進化させて「ランエボXX」まで続ける案を描いていた。車体の剛性と軽さ、足回り、四輪駆動の制御を磨き、自身がスーパー耐久で生み出した「Sタイ制御」も市販車に戻すつもりだった。MT車だけを320 PSにする計画もあったが、リーマン・ショックによる景気の後退で棚上げされ、300 PSにとどまった。2008年を境に中谷が開発に関わる計画は終わり、ランエボはXのファイナルエディションでシリーズを終えた。
プロフィール
レーシングドライバー、自動車評論家。三菱自動車との縁が深く、ランサーエボリューションのV以降の開発ドライバーを務めた。1988年の全日本F3チャンピオン。
三菱の開発者
ダン・シムズエクリプス
西岡芳樹パジェロ
加藤佳彦ランサーエボリューション
藤井啓史ランサーエボリューション
仲西昭徳ギャラン
エイミー・ヒロシゲエクリプス
ドラガン・ヴカディノヴィッチエクリプス
吉松広彰ランサーエボリューション