伊藤修令のプロフィール写真

伊藤修令

日産開発に参加 / 開発責任者

7代目の開発終盤に桜井眞一郎からスカイラインの開発主管を引き継ぎ、8代目(R32型)で GT-R を 16 年ぶりに復活させた人

年表

  1. 1959

    入社富士精密工業

    富士精密工業

  2. 1980
    レパード 初代(F30)のサムネイル
    レパード 初代(F30)

    1980年〜1986年開発に参加

    一緒に開発した人

  3. 1982

    主管(プレーリー、マーチK10型など)

  4. 1984
    スカイライン 7代目(R31)のサムネイル
    スカイライン 7代目(R31)

    1985年〜1990年開発責任者1984年から

    一緒に開発した人

    スカイラインの開発主管

  5. 1986
    レパード 2代目(F31)のサムネイル
    レパード 2代目(F31)

    1986年〜1992年開発に参加

    一緒に開発した人

  6. 1989
    スカイライン 3代目 GT-R(BNR32)のサムネイル
    スカイライン 3代目 GT-R(BNR32)

    1989年〜1994年開発責任者

    呼び名はまだ GT-X

    7 代目(R31)の 4 ドアの発売を控えた 1985 年 6 月、2 ドアのフルサイズモデルができたとき、グリルの中央とテールには GT-R のバッジが付いていた。伊藤は車の実力と GT-R という名の重さを考えて、R31 の 2 ドアクーペからバッジを外し、名前を GTS に改めた。このときから、GT-R は次の R32 で復活させると決めていた。1986 年の初めには GT-R の開発構想を持っていたが、その上半期に会社が創業以来の赤字になり、なかなか言い出せなかった。R32 の商品化を決める 1986 年 7 月に初めて役員に開発計画を告げて決まったが、呼び名はまだ GT-X だった。1989 年 2 月に全国のディーラーを集めて見せたときも資料は GT-X で、馬力は 270ps 以上としていた。こっそり展示した実車には GT-R のエンブレムを付けていたという。ケンメリ GT-R から 16 年ぶりの復活だった。

  7. 1989
    スカイライン 8代目(R32)のサムネイル
    スカイライン 8代目(R32)

    1989年〜1993年開発責任者

    R31 の悔しさを挽回する

    伊藤が開発主管を引き継いだとき、7代目(R31)の開発は桜井の下でほぼ終盤を迎えていて、伊藤が実際に携わった仕事は運輸省への認証登録の申請だけだったという。それでも R31 が不評を買うと、発表時の開発主管として各界の不評を聞くことになった。その悔しさを挽回しようと、伊藤は 8代目(R32 型)の開発主管も続けて担当し、車両開発の初期段階から直接携わった。

  8. 2013

    名誉館長

つながり

  • 桜井眞一郎のプロフィール写真

    桜井眞一郎

    上司師

    プリンス事業部の第二車両設計課で、伊藤は課長の桜井の下、主任としてシャシー関係のとりまとめをしていた。

    伊藤はプリンス時代からの桜井の一番弟子で、1984年に桜井が病に倒れて入院すると、スカイラインの開発主管を急遽引き継いだ。

  • 渡邉衡三のプロフィール写真

    渡邉衡三

    部下

    1973年、渡邉は荻窪の第三シャシー設計部の第三シャシー設計課に配属となり、課長は伊藤だった。

  • 田村宏志のプロフィール写真

    田村宏志

    部下

    田村はオーテックジャパンで桜井に学んだのち、歴代 GT-R の開発責任者である伊藤と渡邉のもとで育ったと紹介されている。

プロフィール

広島県竹原市出身。1959年に広島大学工学部機械工学科を卒業。8代目スカイライン (R32) の開発主管。桜井眞一郎の一番弟子で、7代目の開発終盤に主管を引き継いだ後、8代目は開発の初期段階から担当した。

日産の開発者

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