渡邉衡三

日産開発責任者

9代目と10代目のスカイラインの開発責任者を務め、BNR34 型 GT-R で最後の「スカイラインGT-R」を送り出した人

年表

  1. 1967

    入社日産自動車

    日産自動車

  2. 1970

    日産自動車 ESV(Experimental Safety Vehicle=実験安全車)部門

  3. 1973

    日産自動車 第三シャシー設計部の第三シャシー設計課

  4. 1985

    日産自動車 車両実験部

  5. 1987

    8代目スカイライン(R32型)及びレパードとインフィニティ・Mの実験主担

  6. 1990

    実験主管

  7. 1992

    商品開発本部主管(9代目スカイライン(R33型)の開発責任者)

  8. 1993
    スカイライン 9代目(R33)のサムネイル
    スカイライン 9代目(R33)

    1993年〜1998年開発責任者

    バッテリーをトランクに

    8 代目の R32 は、スカイラインの特徴を思い切り表して、落ちた走りのイメージを取り戻すために企画された。R33 からは居住性のようなセダンに求められるところを充実させる計画で、とくに R32 で指摘されたトランク容量の確保が大事なテーマだった。それでも渡邉は、R32 が受けた「曲がらない」という評価を少しでもよくしたかった。そこで重量配分を改めるために、あえてバッテリーをトランクに置いた。走りのよさは貫かなければならない、という意欲的な挑戦だったと振り返る。

  9. 1995
    スカイライン 4代目 GT-R(BCNR33)のサムネイル
    スカイライン 4代目 GT-R(BCNR33)

    1995年〜1998年開発責任者

    マイナス 21 秒ロマン

    9代目のスカイラインは、日産本社の方針で先代の R32 型より大きくなった。それでも渡邉は、R33 型 GT-R を R32 型 GT-R より速い車に仕上げるという目標で熟成させ、ニュルブルクリンクのラップタイムを 7 分 59 秒と、R32 より 21 秒縮めた。当時の R33 型 GT-R のテレビ CM のキャッチコピーは「マイナス21秒ロマン」だった。

  10. 1998
    スカイライン 10代目(R34)のサムネイル
    スカイライン 10代目(R34)

    1998年〜2001年開発責任者

    V6 を見送って直 6 の RB へ

    10代目の R34 型で、渡邉はスカイラインの長年の懸案だった前後の重量配分やパッケージングを良くするため、V6 エンジンと V35 のパッケージングを使うことも考えたという。しかし、ATTESA E-TS と組み合わせられる V 型エンジンはシーマ用の VH41DE しかなく開発期間が延びる心配があり、VQ エンジンを作るいわき工場に第二ラインを新設する投資も、スカイライン 1 車種では賄いきれない。結局、直 6 の RB エンジンを玉成して使い続けた。

  11. 1999
    スカイライン 5代目 GT-R(BNR34)のサムネイル
    スカイライン 5代目 GT-R(BNR34)

    1999年〜2002年開発責任者

    2 ペダルは諦めた

    渡邉衡三は R34 の GT-R を 2 ペダルでやりたかった。RB26 に対応する AT は R34 のフロアに入らず、載るのはトロイダル CVT だけで、試作車も作った。しかし GT-R のオーナーは約 9 割が何らかのチューンをしていて、どんな馬力で走っているかわからない。そんな車にトロイダル CVT を付けて、お客にいじらないでくださいと言えば誰も買わないだろうと思い、凄く悔しかったが諦めた。そこで R34 の GT-R で手を入れたのはエンジンとトランスミッションだった。社内に無い 6 速 MT はゲトラグから買うことにした。基本設計から確かめ直せと言われたが、トヨタが買ってスープラに載せているのだから問題は無いと言って、買ってもらった。

    ベニヤでやったら火事になる

    R34 の GT-R で渡邉がこだわったのは、弱点と言われた空力で床下のダウンフォースを出すことで、カーボンのリアディフューザーを付けた。安くできると言われたのに約 100 万円かかり、渡邉は水野和敏にうまくだまされたと言う。商品本部長からは、こんな高い部品を付けるならベニヤでやれと言われ、ベニヤでやったら火事になりますよと言い返した。ニュルブルクリンクで加藤博義が乗ったとき、R32 と R33 では必ず徹夜になったのに、R34 はすぐに走れた。

    コノリーにシートを 1 脚送った

    渡邉が R34 の GT-R でもう一つやりたかったのは、英国コノリーの本革で、オプションで少しだけ採った。国内のメーカーには、あんな立体的な形はできないと断られた。ちょうどコノリーが NTC に来ていたので社長に頼むと、シートを 1 脚送れと言われ、送ると半年ほどで仕上がって返ってきた。国内はニスモで、英国ではコノリーで売った。後になって M スペックの頃には国内のメーカーもできると言い出したが、革の柔らかさとなめし方はやはりコノリーの方がよかったと渡邉は言う。

    NISMO常務取締役

つながり

  • 伊藤修令のプロフィール写真

    伊藤修令

    上司

    1973年、渡邉は荻窪の第三シャシー設計部の第三シャシー設計課に配属となり、課長は伊藤だった。

  • 桜井眞一郎のプロフィール写真

    桜井眞一郎

    上司

    渡邉は日産入社後にプリンス事業部第1車両設計部へ配属され、桜井のもとで C10 スカイラインや R381・R382 のサスペンション設計を担当した。

  • 田村宏志のプロフィール写真

    田村宏志

    部下

    田村はオーテックジャパンで桜井に学んだのち、歴代 GT-R の開発責任者である伊藤と渡邉のもとで育ったと紹介されている。

プロフィール

大阪府出身。東京大学工学部機械工学科を卒業。9代目 (R33) と10代目 (R34) スカイラインの開発責任者 (主管)。R33 型 GT-R は R32 型 GT-R より速い車に仕上げることを目標に熟成させた。

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