
貴島孝雄
マツダ開発責任者
ミスター・ロードスター。平井敏彦が掲げた「人馬一体」を受け継ぎ、守り抜いた
年表
- 1967
入社
東洋工業株式会社 設計部 第4シャシー設計係
- 1991
マツダ ル・マン(787B)1991年まで
1991年開発に参加
- 1992
零戦に学んだ「ゼロ作戦」
3代目 RX-7 の開発リーダーを任された貴島は1988年、車体・シャシー・内装・電装から二十数人を選び、部署の壁を越えるタスクフォースを組んだ。掲げたのは、無駄な重量をゼロにする「ゼロ作戦」。手本は、超ジュラルミンと沈頭鋲で軽さと空気抵抗を突き詰めた零戦だった。仕上がった RX-7 は、NSX の半分ほどの価格と部分アルミの車体で、オールアルミの NSX を筑波のタイムでわずかに上回った。
主査として、280馬力までこだわる
貴島は発売の翌年に RX-7 の主査を引き継いだが、バブルが崩れ、1995年には米国での販売の打ち切りが決まった。フォードから来た財務担当の役員に、事業として成り立つかを毎週のように問われるなかでも、技術者の意地として、出力を国内の上限の280馬力まで引き上げることにはこだわった。2002年に生産の終了が決まると、宇品工場では異例の式典が開かれ、全国からロータリーのファンが集まった。
- 1993

駐車場の製図板で、勤務の外に引いた図面
初代ロードスターは、予算も人も足りない小さな社内案件として始まった。トラックと RX-7 の足まわりを抱えていた貴島は、平井敏彦のチームに加わり、デザイン部門の駐車場に持ち込んだ製図板で、土日や就業時間の外に図面を引いた。駆動系の部品の改良を担当の部門に断られると、専門外のその図面まで自分で書いた。
PPF を通すため、自分で組んでみせた
人馬一体を形にするため、貴島はトランスミッションの後端とデフをつなぐパワープラントフレーム(PPF)と、前後のダブルウィッシュボーンを提案した。PPF は日本車で初めての採用だったが、FF 車と同じラインで組む工場からは反発を受けた。貴島は工場に出向き、組み立ての素人でも組める形にまとめてみせて、現場を動かした。
- 1998

初代の7割売れれば合格
平井敏彦の後を継ぎ、貴島は RX-7 と兼ねてロードスターの主査になった。大ヒットした車の2代目は失敗しやすいと考え、初代の約7割にあたる約28万台を自分で目標に決めた。初代の設計を生かして衝突安全や排ガスの規制に合わせ、大きさもほぼ初代のままに抑えた2代目は、約29万台を売って目標を越えた。
デザインは譲っても、大きさは譲らない
2代目のデザインは、フォードから来ていた開発担当の役員が、貴島の知らないうちに米国の拠点へ案を頼んでいた。欧州と広島にも案を出させて競わせたが、販売の多い米国の案に決まった。貴島はデザイナーに初代の寸法を絶対に超えないよう指示し、小型軽量だけは守った。2代目は、米国だけでなく欧州でも好評だった。
- 2005

RX-8 の車台で、ロードスターの軽さを守る
2代目の発売後、主査を若手に譲るよう言われたが、数か月後、経営会議で人事案が翻ったらしく、3代目も任された。3代目は、約200kg 重い RX-8 と車台を共用することが会社の方針だった。貴島は、円高でフォードが求めた部品コストの削減を逆手に取り、専用設計の足まわりの方が全体で収益が上がると経営陣を説得した。1グラムも見逃さない「グラム作戦」で、車台が大きくなっても車重の増加を2代目比10kg にとどめた。
23年ぶりの日本カー・オブ・ザ・イヤー
開発チームの立ち上げで、貴島は日本カー・オブ・ザ・イヤーを取れる車を目標に掲げた。初代がセルシオに敗れて逃した賞だった。試作車ができた2004年、英国での試乗会の前夜にメニエール病を発症し、1か月半会社を休んだが、開発は計画どおりに進んだ。2005年、3代目はマツダに23年ぶりの日本カー・オブ・ザ・イヤーをもたらした。
- 2009
退社
マツダ株式会社
- 2010
山口東京理科大学 工学部教授
- 2011
AutoExeスーパーバイザー
- 2026
Sportscar人馬一体Museum館長
つながり




多田哲哉トヨタ
相談に来た人2007年、スポーツカーの経営承認が取れずにいた多田は、広島のマツダに貴島を訪ねた。貴島は「マツダのスポーツカーは、自動車メーカーのプライドと、エンジニアのパッションが決めるんです」と答えた。
プロフィール
徳島県吉野川市出身。徳島県立徳島東工業高等学校を卒業。マツダの元エンジニア。1994年、平井敏彦の退職に伴い初代ロードスターの開発主査に就任し、その後は2代・3代ロードスター及び3代目RX-7の開発主査を務めた。山陽小野田市立山口東京理科大学工学部教授。