
多田哲哉
トヨタ開発責任者
トヨタのスポーツカーを復活させた人
年表
三菱自動車
コンピューターシステム開発のベンチャー企業
- 1987
入社
トヨタ自動車 電子実験部
- 1993
TTE(トヨタチームヨーロッパ)
- 1998
製品企画本部
- 2004
チーフエンジニア
- 2005
ラクティス 初代2005年〜2010年開発責任者
ファンカーゴの名前を捨てる
ラクティスは、売り場ではファンカーゴの後を継ぐ車だった。それでも多田は、このクラスは買う人の求めるものが移りやすく、ただのモデルチェンジでは足りないと考え、車名からコンセプトまで変えた。定着した名前を捨ててよいのかは、役員の間でも何度も議論になったという。
パドルシフトは、ワンメイクレースのため
背の高い車でも、思い切り気持ちよく走れる車にしたかった。全車に16インチのタイヤを履かせ、パドルシフトは、ヒール・アンド・トゥができない人でもレースに出られるよう、ワンメイクレースを見越して付けた。レース用のコンセプトカーまで作ったが、計画は日の目を見なかった。それでもこの計画を覚えていた誰かの推薦が、のちのスポーツカーの担当につながったようだと多田は振り返る。
- 2007
トヨタ・スバル共同開発(86 / BRZ)2008年〜2012年
スバル × トヨタ
2007年〜開発責任者
スバルの開発現場に入り浸る
他社と組むうえに、スポーツカーはトヨタもスバルもしばらく作っていなかった。周りから大変なことになると言われた多田は、スバルの開発現場に入り浸った。紙の図面を囲んでいた最初の1、2年はぎくしゃくしたが、試作車ができてくると互いを認め合う空気が生まれたという。
エンジンは新しく作らない、はずだった
役員会では、スバルの水平対向エンジンをそのまま使うので余分な投資は要らないと説明し、承認にこぎつけた。ところが開発が始まって1年ほどで、狙った性能に届かないことが分かり、結局エンジンは新しく開発することになった。
86 初代 86
ウィッシュを外れて、2人だけの部署へ
2007年、2代目ウィッシュを開発していた多田は役員に呼ばれ、スポーツカーを作れと命じられた。社内の花形はミニバンで、周りからは左遷だと同情された。スポーツカーの担当は、多田と、中古の AE86 しか乗らないことで知られた若手の2人きりだった。
86 初代 86
プリウスと同じタイヤを履かせる
86 の標準タイヤには、プリウスと同じものを選んだ。性能の高いタイヤに頼らず、滑り出した車を操る楽しさを覚えてほしいという狙いだった。燃費にも効くので、環境と走りを両立したスポーツカーだと、スポーツカーに懐疑的な役員にも伝えやすかった。
車両企画部スポーツグループグループマネージャー
- 2010
スポーツ車両統括部 ZRZRチーフエンジニア
- 2012
トヨタ・BMW 協業(スープラ)2012年〜
2012年〜開発責任者
生まれた車
スープラ 5代目開発責任者
話がまとまらない1年
BMW の開発トップは、採算の厳しい古典的なスポーツカーより、環境技術を生かしたハイテクなスポーツカーを勧めた。直6 のスポーツカーにこだわる多田との交渉は、気づけば1年以上たっていた。開発トップが替わると、トヨタがそこまで言うならと流れが一気に変わった。
走りの味付けはトヨタが決める
設計の実務は BMW に任せ、骨格とパワートレインは Z4 と分け合った。その代わり、スープラの足回りやエンジン、変速機の味付けはトヨタ側のテストドライバーがすべて決められる契約を結んだ。チームはスープラと Z4 に分かれてデザインも別々に進め、BMW からの注文は結局ほとんど無かったという。
スープラ 5代目
86 の試乗会から、内緒でミュンヘンへ
2012年5月、スペインで 86 の記者試乗会に立ち会っていた多田に、日本から電話が入った。翌日ミュンヘンの BMW 本社へ行き、一緒に車を作れるか調べてこいという。スープラとは言われていなかったが、量産の高性能な直6 を持つのは BMW だけで、機内でこれはスープラだと思ったという。楽観的な報告を送ると、そのままプロジェクトのリーダーを任された。
スープラ 5代目
短いホイールベースを、試作車で通す
ホイールベースとトレッドの比を先に決め、ホイールベースは 86 より 100mm 短くした。本社からは、そんなに短くて超高速で安定するのかと心配された。そこで BMW の 2 シリーズをもとにした先行試作車を作らせ、日本に送って社長や役員に乗ってもらい、ようやく開発にゴーが出た。
- 2014
スポーツ車両統括部スポーツ車両統括部長
- 2018
チーフエンジニア
- 2019
主査
- 2021
退社
NPO法人日本ソープボックスダービー協会理事長
つながり
上司助言をくれた人2012年5月、スペインで86の試乗会をしていた多田に、内山田は電話で「おまえ、明日誰にも内緒でミュンヘンへ行け」と命じた。
多田はパワートレインの組み合わせも含めて検討を重ね、内山田と豊田社長にも相談に行ったが、「それはまだちょっと早い」と言われた。


貴島孝雄マツダ
助言をくれた人2007年、スポーツカーの経営承認が取れずにいた多田は、広島のマツダに貴島を訪ねた。貴島は「マツダのスポーツカーは、自動車メーカーのプライドと、エンジニアのパッションが決めるんです」と答えた。
プロフィール
愛媛県新居浜市出身。名古屋大学工学部を卒業後、三菱自動車、コンピューターシステム開発のベンチャー企業を経て、1987年にトヨタ自動車に入社。86 と GR スープラのチーフエンジニア。製品企画本部では初代 bB、2代目ラウム、初代パッソ、初代ラクティスの開発を担当した。